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終わりと始まり ー あの日から一年(池澤夏樹、朝日新聞、2012.03.10) [雑感]
『終わりと始まり』(池澤夏樹、朝日新聞、2012.03.10)
あの日から1年
-不安を抱いて生きる-
この一年を我々はどう過ごしてきたのだろう? 過酷な体験で我々はどう変わったのだろう? 最初に来たのは、いうまでもなく衝撃だった。茫然自失。天変地異を前にして、本当にこんなことが起こるのかと立ち尽くした。
その衝撃の度は現地で実際に被災した人たちから、遠方でもっぱらメディアによって事態を知った人たちまで、いくつもの段階があっただろう。
それでも日本列島のすべての場所でこの規模の災害が起こり得ることはみな痛感したはずだ。津浪と原発はともかく、地震がないと保証された土地はこの国には一寸もない。
次に長い忍苦の日々が来た。これもまた被災地からの距離や関わりかたに応じてさまざまだったけれど、ともかく我々はみな辛い思いをした。遠い者は避難所と仮設住宅の暮らしの苦労を想像しようと試みた。
忍苦はまた奮起でもあった。生き延びた人たちは明日のために努力したし、支援を志した人たちもよく動いた。混乱は多々あったけれど、ぜんたいとして民間の支援は大急ぎの組織作りから現場での働きまで、まずまずうまく機能したとぼくは思う。
行政機構はどうか? 政府と中央官庁に対する不満は多く残った。彼らには何の準備もなかった。また場当たり的な施策でことをいよいよ悪くすることが少なくなかった。政争と省庁間の争いも目に余った。その一方、警察と消防と自衛隊の活動は心強かった。
被災地の自治体については極限的な状況の中でよく頑張ったとしか言いようがない。山積する課題を一つ一つ片付けてゆくしかなかったのだろう。災害の前には停滞していた地域でも、あの日から後は力を尽くした。住民たちが行政任せではダメだと気づいて積極的に発言する場面も見られた。
しかし、あれだけの奮起を重ねても結果はこの程度のものか、という思いも一年後の今に残る。これがこの国の実力かと考え込む。
達成感と落胆を天秤に掛ければ、後者の方がぐっと重い。復興はおろか復旧だってまだ端緒についたばかりだ。
最初のころはなにか絶望の果ての希望のようなものが感じられた。いわゆる災害ユートピアで人々は助け合ったし、これを機にこの国が大きく変わるような期待があった。ショックが大きかった分だけそれを奇貨として改革が実現するような気がした。
いちばん大きな期待はこれで核エネルギーと縁が切れるのではないかということだった。ぼくは以前から核は人間の手には負えないと考えてきたから、それがこんなに派手な怖ろしい形で実証された以上、ここで一気に方針が変わるのではないかと思った。
しかし電力会社も産業界もしぶとい。利権の力は強いし、彼らには我々とは違う倫理観があるらしい。水俣病のケースを考えてみれば先は長いのかもしれない。
それでも、もうしばらくすると日本中で一基の原発も稼働しない日が来る。自然エネルギーをもっと使おうという運動も少しずつ盛り上がっている。この分野でもことは一進一退の綱引きで決まるのだろうか。
震災で変わったことの一つに、一人一人が意見を持たざるを得なくなったということがある。いちばんいい例が放射線による健康被害に対する姿勢で、安全なレベルについて信頼できる数字がないから、個人がそれぞれ判断するしかない。それは本当にむずかしいことで、時には家族の間でも考えが異なって不和を生じたりする。
それは不幸なことだけれども、一人で生きるというのは人間の本然である。日本人はこれまで、周囲に合わせて生きることが上手だった。それが自分だけで考えに考えて道を選ぶようになれば、それは一つの変化として意味があるかもしれない。次の家をまた海辺に造るか高台に移るかというのも結局は個々人で決めるしかない問題だ。
震災には被災者がおり、支援者がおり、その外に部外者ないし傍観者がいた。しかし日本ぜんたいを巻き込んだ大きな社会現象であった以上、実は日本に住む者みんなが当事者であった。
それを我々は不安という形で実感している。大地は乱暴に揺れるし、海は陸にのしかかるし、原発は倒壊して大量の放射性物質を撒き散らす。
これが我々の生の条件である。減災の努力はできる。ある程度は予測もできる。原発はすべて停止されるかもしれない。つまり備えることは可能だが、しかし万全の策はない。
この事態、何かに似ていると思ったら、全面核戦争だった。戦後の一時期、敏感な人たちがみな本気で脅えていた。後になってわかったことだが、キューバ危機は本当に世界の危機だった。
生きることには一定量の不安が含まれる、ということを我々は覚った。
あの日から1年
-不安を抱いて生きる-
この一年を我々はどう過ごしてきたのだろう? 過酷な体験で我々はどう変わったのだろう? 最初に来たのは、いうまでもなく衝撃だった。茫然自失。天変地異を前にして、本当にこんなことが起こるのかと立ち尽くした。
その衝撃の度は現地で実際に被災した人たちから、遠方でもっぱらメディアによって事態を知った人たちまで、いくつもの段階があっただろう。
それでも日本列島のすべての場所でこの規模の災害が起こり得ることはみな痛感したはずだ。津浪と原発はともかく、地震がないと保証された土地はこの国には一寸もない。
次に長い忍苦の日々が来た。これもまた被災地からの距離や関わりかたに応じてさまざまだったけれど、ともかく我々はみな辛い思いをした。遠い者は避難所と仮設住宅の暮らしの苦労を想像しようと試みた。
忍苦はまた奮起でもあった。生き延びた人たちは明日のために努力したし、支援を志した人たちもよく動いた。混乱は多々あったけれど、ぜんたいとして民間の支援は大急ぎの組織作りから現場での働きまで、まずまずうまく機能したとぼくは思う。
行政機構はどうか? 政府と中央官庁に対する不満は多く残った。彼らには何の準備もなかった。また場当たり的な施策でことをいよいよ悪くすることが少なくなかった。政争と省庁間の争いも目に余った。その一方、警察と消防と自衛隊の活動は心強かった。
被災地の自治体については極限的な状況の中でよく頑張ったとしか言いようがない。山積する課題を一つ一つ片付けてゆくしかなかったのだろう。災害の前には停滞していた地域でも、あの日から後は力を尽くした。住民たちが行政任せではダメだと気づいて積極的に発言する場面も見られた。
しかし、あれだけの奮起を重ねても結果はこの程度のものか、という思いも一年後の今に残る。これがこの国の実力かと考え込む。
達成感と落胆を天秤に掛ければ、後者の方がぐっと重い。復興はおろか復旧だってまだ端緒についたばかりだ。
最初のころはなにか絶望の果ての希望のようなものが感じられた。いわゆる災害ユートピアで人々は助け合ったし、これを機にこの国が大きく変わるような期待があった。ショックが大きかった分だけそれを奇貨として改革が実現するような気がした。
いちばん大きな期待はこれで核エネルギーと縁が切れるのではないかということだった。ぼくは以前から核は人間の手には負えないと考えてきたから、それがこんなに派手な怖ろしい形で実証された以上、ここで一気に方針が変わるのではないかと思った。
しかし電力会社も産業界もしぶとい。利権の力は強いし、彼らには我々とは違う倫理観があるらしい。水俣病のケースを考えてみれば先は長いのかもしれない。
それでも、もうしばらくすると日本中で一基の原発も稼働しない日が来る。自然エネルギーをもっと使おうという運動も少しずつ盛り上がっている。この分野でもことは一進一退の綱引きで決まるのだろうか。
震災で変わったことの一つに、一人一人が意見を持たざるを得なくなったということがある。いちばんいい例が放射線による健康被害に対する姿勢で、安全なレベルについて信頼できる数字がないから、個人がそれぞれ判断するしかない。それは本当にむずかしいことで、時には家族の間でも考えが異なって不和を生じたりする。
それは不幸なことだけれども、一人で生きるというのは人間の本然である。日本人はこれまで、周囲に合わせて生きることが上手だった。それが自分だけで考えに考えて道を選ぶようになれば、それは一つの変化として意味があるかもしれない。次の家をまた海辺に造るか高台に移るかというのも結局は個々人で決めるしかない問題だ。
震災には被災者がおり、支援者がおり、その外に部外者ないし傍観者がいた。しかし日本ぜんたいを巻き込んだ大きな社会現象であった以上、実は日本に住む者みんなが当事者であった。
それを我々は不安という形で実感している。大地は乱暴に揺れるし、海は陸にのしかかるし、原発は倒壊して大量の放射性物質を撒き散らす。
これが我々の生の条件である。減災の努力はできる。ある程度は予測もできる。原発はすべて停止されるかもしれない。つまり備えることは可能だが、しかし万全の策はない。
この事態、何かに似ていると思ったら、全面核戦争だった。戦後の一時期、敏感な人たちがみな本気で脅えていた。後になってわかったことだが、キューバ危機は本当に世界の危機だった。
生きることには一定量の不安が含まれる、ということを我々は覚った。
立川志の輔独演会(2011.07.28,岡山市民文化ホール) [落語]
立川志の輔独演会を聴いてきました。
立川志の輔の独演会を聴くのは、約4か月ぶり。
志の輔師匠の表情を肉眼で確認できる距離の席が確保できるのは、岡山での独演会ゆえのありがたさか?
今日の演目は、次のとおり。
前座のうち、立川志の太郎はともかく、残念だったのは、二人目の立川志のぽん。
「金明竹」という演目のためかもしれないが、かなり拙く感じられた。調子が悪かったのかなぁ?
今夜の志の輔師匠のマクラは、まず、今回で岡山での落語会が4回目になることについて。
過去3回は12月で寒かったので、7月にしてみたが暑いのもいけない、というような話から始まった。
ということは、私は、幸運なことに岡山での落語会を最初から聴けているわけだ。ちょっと感動。
「新作落語なので、800人の方の中にはお気に召さない方もいらっしゃると思いますが、あらかじめ申し上げておきます」という前置きで始まった「ハナコ」は、2009年のPARCO劇場での公演が初演。
2008年に起きた食品偽装問題をテーマにしていて、温泉旅館に泊まりに来た三人組の客に対し、宿の女将が「あらかじめ」と言って、くどいほど説明をする、という展開。
「新・八五郎出世」は、お酒を飲み進むにつれ酔いが増していく八五郎を演じる姿を生で見て、初めて成立するのでは、と感じた噺。これまでCDで聞いたことはあったが、違うお噺のように臨場感があって楽しめた。
松永鉄六さんの生の三味線もよかったです。岡山で独演会をされている噺家さんの中でも、ちゃんと生の三味線の方を招かれているのは志の輔師匠だけ……ではないでしょうか?
来年もよろしくお願いします。m(._.)m
立川志の輔の独演会を聴くのは、約4か月ぶり。
志の輔師匠の表情を肉眼で確認できる距離の席が確保できるのは、岡山での独演会ゆえのありがたさか?
今日の演目は、次のとおり。
狸の札(立川志の太郎)
金明竹(立川志のぽん)
ハナコ(立川志の輔)
(仲入り)
長唄三味線(松永鉄六)
新・八五郎出世(立川志の輔)
前座のうち、立川志の太郎はともかく、残念だったのは、二人目の立川志のぽん。
「金明竹」という演目のためかもしれないが、かなり拙く感じられた。調子が悪かったのかなぁ?
今夜の志の輔師匠のマクラは、まず、今回で岡山での落語会が4回目になることについて。
過去3回は12月で寒かったので、7月にしてみたが暑いのもいけない、というような話から始まった。
ということは、私は、幸運なことに岡山での落語会を最初から聴けているわけだ。ちょっと感動。
「新作落語なので、800人の方の中にはお気に召さない方もいらっしゃると思いますが、あらかじめ申し上げておきます」という前置きで始まった「ハナコ」は、2009年のPARCO劇場での公演が初演。
2008年に起きた食品偽装問題をテーマにしていて、温泉旅館に泊まりに来た三人組の客に対し、宿の女将が「あらかじめ」と言って、くどいほど説明をする、という展開。
「新・八五郎出世」は、お酒を飲み進むにつれ酔いが増していく八五郎を演じる姿を生で見て、初めて成立するのでは、と感じた噺。これまでCDで聞いたことはあったが、違うお噺のように臨場感があって楽しめた。
松永鉄六さんの生の三味線もよかったです。岡山で独演会をされている噺家さんの中でも、ちゃんと生の三味線の方を招かれているのは志の輔師匠だけ……ではないでしょうか?
来年もよろしくお願いします。m(._.)m
タグ:立川志の輔
狐野扶実子の東京ビストロ案内 [10] - dancyu 2011年8月号 [食]
日本のステーキ・フリットはおいしい
パリの「ル・セヴェロ」で修行した茂野眞が焼くステーキ。

パリの「ル・セヴェロ」で修行した茂野眞が焼くステーキ。
祥瑞 (Shonzui)
東京都港区六本木7-10-2 SIMIZUビル2F
Tel. 03-3405-7478
[休] 日曜・祝日
[営] 18:30~23:00 (L.O.)

ルベイとフミコのビストロ・ヌーヴォー (クレアドゥエ クレアトラベラー)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/10
- メディア: 単行本
Q10 [本]
タグ:Q10
『ダイナミックフィギュア』(三島浩司,早川書房,2011.02.25) [本]
早川書房のJコレクションを読むのも、三島浩司という作家の本を読むのもこれが初めて。
読むきっかけは、どこかの新聞か雑誌で見かけた書評だったが、最後まで興味深く読めた。
次のページを早く読みたくて、夜更かししてしまったのは久しぶり。
いわゆる“page turner”ですね。
物語の主たる舞台は、香川県全域。
あらすじは、ごくかいつまんでしまうと、剣山に落下した異星からの生命体(キッカイ)と人型二足歩行兵器(ダイナミックフィギュア)との戦いを緻密に描いたもの。
随所に、同じく人型二足歩行兵器(汎用人型決戦兵器)を主役に据えた『エヴァンゲリオン』の影響も感じられるが、異星生命体を世代ごとに進化する「概念を学ぶもの」と設定したところや、人型二足歩行兵器の出撃の可否を関係諸国との協議で決めるという描写は斬新。
物語は、基本的には淡々と書かれているのだが、ところどころ熱く燃え上がるのはずるい。
そして、最終決戦においても、勝負を決するのは、なんと「魂」の概念。
「狙いを定めた入魂の銃弾は通る」、というのだが、アニメならともかく(Zガンダムの最終話には、主人公のカミーユ・ビダンが、エマ・シーンやフォウ・ムラサメといった死んでいった者たちの魂の力を借りて、パプテマス・シロッコを倒す、という描写がある)、リアル志向のSF小説として、これはいささか禁じ手なのではないだろうか?
そして、心に残ったのは、最終章の「ユー・セイ」という言葉。
以下、引用。
……泣ける。
少年(栂遊星)は少女(公文土筆)を愛し抜き、そして、調和と融和の象徴になったのだ。


読むきっかけは、どこかの新聞か雑誌で見かけた書評だったが、最後まで興味深く読めた。
次のページを早く読みたくて、夜更かししてしまったのは久しぶり。
いわゆる“page turner”ですね。
物語の主たる舞台は、香川県全域。
あらすじは、ごくかいつまんでしまうと、剣山に落下した異星からの生命体(キッカイ)と人型二足歩行兵器(ダイナミックフィギュア)との戦いを緻密に描いたもの。
随所に、同じく人型二足歩行兵器(汎用人型決戦兵器)を主役に据えた『エヴァンゲリオン』の影響も感じられるが、異星生命体を世代ごとに進化する「概念を学ぶもの」と設定したところや、人型二足歩行兵器の出撃の可否を関係諸国との協議で決めるという描写は斬新。
物語は、基本的には淡々と書かれているのだが、ところどころ熱く燃え上がるのはずるい。
そして、最終決戦においても、勝負を決するのは、なんと「魂」の概念。
「狙いを定めた入魂の銃弾は通る」、というのだが、アニメならともかく(Zガンダムの最終話には、主人公のカミーユ・ビダンが、エマ・シーンやフォウ・ムラサメといった死んでいった者たちの魂の力を借りて、パプテマス・シロッコを倒す、という描写がある)、リアル志向のSF小説として、これはいささか禁じ手なのではないだろうか?
そして、心に残ったのは、最終章の「ユー・セイ」という言葉。
以下、引用。
「ユー・セイ。叩いちゃいけませんよ」
非常に多くの意味を持った「ユー・セイ」。ときにケンカをしている子供たちに向けられ、ときに仲裁の決まり文句として大人たちをうながすためにも使われる。謝罪に代えてもいいし、感謝の気持ちを伝えることもできる。調和や融和をもたらす、誰もが愛してやまない言葉だ。
(中略)
STPFから生還した男が真っ先に訴えた言葉。つたない英語がメッセージとなってそのまま世界中に広まってしまったのだ。そのフレーズは世界的イベントが続く七月から二ヶ月の間にもっとも頻繁に口にされる。世界中で故人の死を悼む人々は、悪夢をよみがえらせて激しい感情を露わにすることもある。そのようなとき、周りの人間は空を指さしながらいうのだ。
「ユー・セイ」にはその続きがあってフレーズになる。
You Say “Love Tsukushi”.
「あの娘を許してやれよ」という意味だ。
全体の調和を望みながら、最後には個人的行為に徹した一人の若者。その人間的な弱さに共感して彼の理念を引き継ごうとするのだ。
……泣ける。
少年(栂遊星)は少女(公文土筆)を愛し抜き、そして、調和と融和の象徴になったのだ。

ダイナミックフィギュア〈上〉 (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)
- 作者: 三島 浩司
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/02/25
- メディア: 単行本

ダイナミックフィギュア〈下〉 (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)
- 作者: 三島 浩司
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/02/25
- メディア: 単行本
東京都知事選のポスター [雑感]
狐野扶実子の東京ビストロ案内 [9] - dancyu 2011年5月号 [食]
春のビストロ
ビストロのような規模が小さいところでは、いい食材をシェフの思い通りに使い回せるというメリットがある。その日の食材を、その日のメニューに組み込んで柔軟に出すことができる。
しかし、流通が発達していなかった時代のビストロは、比較的安価で日持ちのする食材を選んで仕入れ、定番のメニューにして出すことが当たり前だった。
神宮前にある「ル ゴロワ」は、どのお皿にも季節感を感じるころができる店。
シェフとマダムが惚れ込んだ北海道の生産者から直接取り寄せた食材を、メニューのほとんどに使って、それぞれの季節感を皿の中で美しく表現している。
例えば、人気の“特製ゴロワ風サラダ”には、この時季ならグリーンアスパラやホタテなどが入り、メインの鴨、蝦夷鹿、牛、豚、仔羊などもすべて北海道のもの。デザートのショートケーキにも北海道産のイチゴが乗っている。

ビストロのような規模が小さいところでは、いい食材をシェフの思い通りに使い回せるというメリットがある。その日の食材を、その日のメニューに組み込んで柔軟に出すことができる。
しかし、流通が発達していなかった時代のビストロは、比較的安価で日持ちのする食材を選んで仕入れ、定番のメニューにして出すことが当たり前だった。
神宮前にある「ル ゴロワ」は、どのお皿にも季節感を感じるころができる店。
シェフとマダムが惚れ込んだ北海道の生産者から直接取り寄せた食材を、メニューのほとんどに使って、それぞれの季節感を皿の中で美しく表現している。
例えば、人気の“特製ゴロワ風サラダ”には、この時季ならグリーンアスパラやホタテなどが入り、メインの鴨、蝦夷鹿、牛、豚、仔羊などもすべて北海道のもの。デザートのショートケーキにも北海道産のイチゴが乗っている。
ル ゴロワ (Le Gaulois)
東京都渋谷区神宮前2-3-18
Tel. 03-3404-0820
[休] 月曜(祝日の場合は翌日)
[営] 12:00~14:00 (L.O.) , 18:00~21:00 (L.O.)

ルベイとフミコのビストロ・ヌーヴォー (クレアドゥエ クレアトラベラー)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/10
- メディア: 単行本
狐野扶実子の東京ビストロ案内 [8] - dancyu 2011年4月号 [食]
東京の中のパリ
ビストロの語源の一つに、19世紀の初め、ナポレオン支配下のパリがロシアによって解放された際、空腹のロシア兵たちが、大衆的な食堂に押し寄せて食事を注文し、「ブイストロ! ブイストロ!(「早く!」の意味)と叫び、そこから「ビストロ」と呼ばれるようになった、という説がある。
そして、兵士たちが叫んだ場所が、モンマルトルの丘だった。
そのビストロの原点ともいうべき場所(モンマルトルの丘)の名前を冠したビストロが神楽坂にある。
ソムリエのデュラン・ジャニック氏が1998年に開いた「ル・クロ・モンマルトル」は、通りからちょっと入った脇道にあり、アットホームな雰囲気。ボードに書かれたメニューにも、アンディーブのグラタン、鴨のテリーヌ、バヴェットステーキといった、パリのビストロの定番といえるメニューが並んでいる。
ちなみに、バヴェットとは、牛の脇腹あたりにある部分で、日本の焼肉屋では「カイノミ」と呼ばれている。
日本ではあまり馴染みがないためか、バヴェットといいながら、実際にはハラミを使っているビストロが多いようだが、この店では、きちんとバヴェットを焼いている。
また、鴨のテリーヌも内臓やピスタチオ、プラムなどがざくざくと入って、程よく空気が含まれている感じがあり、この食感こそがビストロ料理の醍醐味といえる。同じ料理でも、用いる素材、部位や食感などが全く異なり、レストランであれば、フォアグラなどを入れてみっちりと密度あるものが多いが、これがビストロとレストランの大きな違いであり、また、比較的安い材料を手間暇をかけておいしくするビストロならではの味わいであり、楽しみである。
「自分が好きなものを出している」というデュラン氏は、モンマルトルの丘と雰囲気が似た神楽坂が気に入って出店。
パリのビストロそのままの雰囲気のこの店には、実際、フランス人の客が多いのだが、日本人でも、そして男性、女性に関わらず一人でも楽しく食事ができる雰囲気となっている。

ビストロの語源の一つに、19世紀の初め、ナポレオン支配下のパリがロシアによって解放された際、空腹のロシア兵たちが、大衆的な食堂に押し寄せて食事を注文し、「ブイストロ! ブイストロ!(「早く!」の意味)と叫び、そこから「ビストロ」と呼ばれるようになった、という説がある。
そして、兵士たちが叫んだ場所が、モンマルトルの丘だった。
そのビストロの原点ともいうべき場所(モンマルトルの丘)の名前を冠したビストロが神楽坂にある。
ソムリエのデュラン・ジャニック氏が1998年に開いた「ル・クロ・モンマルトル」は、通りからちょっと入った脇道にあり、アットホームな雰囲気。ボードに書かれたメニューにも、アンディーブのグラタン、鴨のテリーヌ、バヴェットステーキといった、パリのビストロの定番といえるメニューが並んでいる。
ちなみに、バヴェットとは、牛の脇腹あたりにある部分で、日本の焼肉屋では「カイノミ」と呼ばれている。
日本ではあまり馴染みがないためか、バヴェットといいながら、実際にはハラミを使っているビストロが多いようだが、この店では、きちんとバヴェットを焼いている。
また、鴨のテリーヌも内臓やピスタチオ、プラムなどがざくざくと入って、程よく空気が含まれている感じがあり、この食感こそがビストロ料理の醍醐味といえる。同じ料理でも、用いる素材、部位や食感などが全く異なり、レストランであれば、フォアグラなどを入れてみっちりと密度あるものが多いが、これがビストロとレストランの大きな違いであり、また、比較的安い材料を手間暇をかけておいしくするビストロならではの味わいであり、楽しみである。
「自分が好きなものを出している」というデュラン氏は、モンマルトルの丘と雰囲気が似た神楽坂が気に入って出店。
パリのビストロそのままの雰囲気のこの店には、実際、フランス人の客が多いのだが、日本人でも、そして男性、女性に関わらず一人でも楽しく食事ができる雰囲気となっている。
ル・クロ・モンマルトル (Le Clos Montmartre)
東京都新宿区神楽坂2-12 Ryo I 神楽坂1階
Tel. 03-5228-6478
[休] 日曜
[営] 11:30~14:00 (L.O.) , 18:00~21:30 (L.O.)

ルベイとフミコのビストロ・ヌーヴォー (クレアドゥエ クレアトラベラー)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/10
- メディア: 単行本
「舟越桂2010」展(熊本市現代美術館) [美術]
熊本市現代美術館(CAMK)で開催中(2月13日まで)の「舟越桂2010」展を観てきました。
美術館に着いたのが、12月11日(土)の12時過ぎ。
大きな看板が出ていて、期待が高まります。


まず、今回の主目的である舟越桂氏によるアーティスト・トークの会場となるホームギャラリーの下見。
比較的広い会場で、一安心。
講演開始まで2時間近くあるし、場所取りのために座っていなくても、まあなんとかなるだろう、という見込みの元、会場内をぐるっと一回り。
展示室は、1980年代、1990年代、2000年代と時代ごとに3つに分けられ、作品点数は多くなかったが、作風の変化がわかる、いい展示だった。
中でも、初めて見たのは、「風のある部屋」(1992年、株式会社西日本シティ銀行)と「もうひとりのスフィンクス」(2010年、エド・ブローガン氏蔵)。
13時過ぎに見終わったので、講演会の会場へ移動。
よく見ると、誰も座っていない席にも場所取りのために物が置かれていて、マナーの悪さに唖然。それでも何とか前よりの席を確保。
14時には、席は満席。周囲にもかなりの数の立ち見のお客さん。
きっと、主催者側も、こんなに聴講したい人が集まるとは思っていなかったんでしょうね。
すぐに、学芸員の紹介で、舟越桂氏が登場。
「昨夜、熊本で飲み過ぎてしまい、ひどい声で申し訳ない」という前置きで、講演は始まりました。
以下、メモから転載。
========================================
熊本に滞在するのは初めて。
でも、以前から、深いつながりがあった。一つは彫刻の素材として使っている楠が、熊本県の県木であること。九州からの材木を使っているということは認識していたが、それが熊本県産だとは知らなかった。
もう一つは、同時開催されている「光の絵画」展。父・舟越保武のダミアン神父の像が展示されていた。ダミアン神父とハンセン氏病とのつながりは、若いころ、父から聞かされていた。
自分の彫像の眼に使っている大理石は、父が使っていたもの。
固定方法は、仏像の玉眼の固定方法を真似している。内側を刳りぬいて、まぶたの部分は1ノミずつ削っていくという手法。
作品のタイトルは、見えているものを、もう一度、言葉にするのは止めにした。
彫刻にブリキを使ったことに論理性はない。
最初のデッサンにあったものを立体化したもので、もっともそれを表現するのに適した素材を使っている。
その素材が、一般的に彫刻に適しているとされているかどうかは関係なく、使っていいと判断できる性格をしている。
山ともう一つの顔。
もう一つの顔は、自分の中にいる自分と相反するものの表現。
山は、学生のころ造形大にタクシーで乗り合わせて行く途中で思いついた「あの山は俺の中に入る」という、自分でも驚く言葉に由来している。
スフィンクスは人に謎をかける。だからこそ、スフィンクスは人間をずっと見続けている。
なにも言わない。ただ、知っている。
潜在的には、作品を作り始めた初期のころから、スフィンクスとは出会っている。
ノヴァーリスの『青い花』の一節をよく覚えている。
「この世界を知るものとは、なんぞや?」
「自分自身を知るもの」
ここには、なにか大事なことが書かれている、と感じた。
彫刻をやっていこうと思ったが、そのころにはもう流行していなかった具象彫刻しかできないと思っていた。具象に進もうと思う後押しを「自分自身を知るもの」という言葉がしてくれた。
人間とはこうだ、ということは、世界とはこう成り立っている、ということに等しい。
彫像は、胴の内刳りをして、軽くすると同時に、ヒビを予防している。
「バッタを食べるスフィンクス」は、昔観た『事件』というドラマで見た場面に影響されている。
バッタを食べたことはないが、苦いような味がするに違いない。それを敢えて殺して、噛んで食べる。それは、スフィンクスが高いところで人の戦いを見ているときに感じる思いに似ているのではないか?
肩や背中から手が出ている作品が多い。
その手とは、アンテナとしての手。誰かと繋がる、助けを借りるための手。
そういうものとしてならいいのではないか、と思い、作品に取り入れている。
「見晴台のスフィンクス」は、「スフィンクスは自分たちの中にある。なら、自分をスフィンクスに入れてみよう」という思いで制作した。
「あるんだよ。でも見えない」という点から、秘仏や胎内仏も意識している。
自刻像を全部を入れてしまう(見えなくしてしまう)のはもったいないので、ああいった形で見えるようにした。
また、頭の中に収めるためのバランスから、キングコングのような体型になっている。ほんとうはあんなポーズにしたくはなかったのだが、後頭部に収めるという構造上の制限から、あのような体型にならざるを得なかった。
胴体に金箔を貼ったのは、金箔なしでは、将来、レントゲンで撮影してもなにも写らないだろう、という思いがあったから。
版画は、フィルムに描いた線がそのまま原画になる手法を用いている。手描きがそのまま版になる。
普段は夜から夜明けまで働く生活をしているが、版画のときは他の人も絡んでいるし、2週間のプロジェクトで予定した作品数を完成させないと関係者が困るため、ほんとうに別人のように働いている。
<楠を素材として選んだ理由について>
函館で大きいレストランを経営している叔父の仲介で、トラピスト修道院の聖母を彫ることになった。
父(舟越保武)に頼みたかったようなのだが、父は木彫をやっておらず、また、予算もなかった関係で、息子の、まだ無名の自分に白羽の矢が立った。
2mを超える作品になるので、大学の教授に相談をしたところ、楠がいいんじゃないか、と薦められた。
実際に彫ってみて、この材なら、僕はなんとかできる、と感じた。
価格もヒノキより安く、硬さも中くらい。色も白すぎず、濃すぎず。匂いもいい。
困るところは、木目がねじれているところ。彫る方向を頻繁に変える必要がある。
<作品を手放すときの気持ちについて>
自分の作品であっても、手元を離れてしまうと、二度と見る機会のない作品は多い。
どこにどの作品があるのかは、画廊を通じて知るだけで、コレクターの人と友達になる、ということも、あまりない。
人の形をしたものなので、手放すのは辛い。どの作品とはいわないが、億万長者になったら、買い戻したい作品がいくつかある。
最近は助手が小まめに掃除をしてくれるので、そういういことはなくなったが、以前、父の家の倉庫で制作をしていたときは、彫った木屑が床に溜まっていき、作品が完成して運び出されると、そこにポッカリと穴が空き、寂しかった。周囲の音は同じなのに、辺りが急に静かになったような気さえした。
<趣味について>
若いころは身体を動かすことが好きだった。特にラグビー。
趣味といえるものは、あまりない。映画は好き。いい年をして、テレビっ子でもある。
スケートボードが好きで、若いころ、「妻の肖像」を完成させる前のころ、そのころ住んでいた府中の競馬場の駐車場でずっとやっていた。
<父、舟越保武について>
影響されている。
一生、父を超えられないだろうな、と思っている。他人の評価ではなく、自分(舟越桂)の感じる父のすごさを超えられないと思っている。
学生のころ、「こういうものと出会ったから、彫刻の道を選んだ」という話をしたことがあった。
そのとき、「(そういうきっかけが)俺にはない」と思い、わりとショックだった。
少し後で、物心がつく以前に、そのきっかけに出会っていることに気がついた。
それは、記憶にはないけれど、父という存在との大事な出会い。
小3のころには、「彫刻家になっていくだろうなぁ」という遠い予想を抱いていた。
「スフィンクスの話」という作品の完成間近、「これを作るために、ずっと彫刻を作ってきたのかもしれない」と思った。
<美しいという言葉について>
私は「美しい」という言葉を安易に使いすぎているのかもしれない。
私が美しいと思うものは、何かが調和しているようなもの。それも盲腸があるような調和。余計なものがくっついた調和。
例えば、すごく辛いものが含まれている映画でも、「美しい」と表現することはある。
例えば、傷がないお茶碗と傷があっても、それ全体として美しいお茶碗。
最近、奇異に見える作品も作り始めているのは、そういう思いがある。
<社会との関わりについて>
削ぎ落とすことで、いつの時代にも通用する意匠というものがある。
今の政府を批判しても、体制が変わるとその批判自体が古くなる。
自分の作品には、服装なども、流行そのもの、その時代にだけ通用するようなものは取り入れないようにしている。
<表情について>
少し外斜視気味にしているので、遠くを見ているようになっている。
一番遠くにはなにがあるか?
世界を知る=自分を知る、ならば、自分を見るのでもいいんじゃないか?
固定した表情にしないように作ってきた。笑顔で作ると、それは広がりのない、それだけのものになってしまう。
もっと長い間通用するものを作りたかった。
<彩色について>
下地には、アクリル絵の具の白を濁らせたものを塗っている。
それをサンドペーパーで削り落とす。木の色に助けられていると思う。
肌色は、油絵の具を使っている。頬に赤みがほしいときは、絵の具が乾かないうちにパステルの粉を飛ばしている。
胴体は、アクリル絵の具を使うことが多い。テカリを出したくないときは、石の粉を混ぜたりしている。伝統的な技法にはこだわりがないので、自由にやっている。
寄せ木については、伝統的な技法を教えてもらっていないのが、マイナスになっている。
(質問者に対し)彫刻をやっているなら、なんでも使った方がいい。一生は短いから。
<仏像からの影響について>
仏像からの影響は受けている。
鎌倉時代の仏像には、自分の作品との近さを感じている。
法隆寺の救世観音はすごいと思う。東大寺の広目天もすばらしく好き。
運慶の俊乗上人(俊乗房重源)坐像には、人を表現することが世界を表現することにつながる、という念を抱いた。
========================================
質問が長引き、終わったのは予定の15時半を大きく回った16時過ぎ。
舟越氏は、少し休憩した後、サイン会にも応じてくれ、私も今回のカタログにサインをいただきました。
その後、展示会場をもう一度ぐるっと見て、戻ってくると、まだサイン会は続いていました。
講演だけでもお疲れでしょうに、よほどのサービス精神がないと、なかなかできないことだと思います。
美術館を出ると、もう17時過ぎ。
わざわざ熊本まで来た甲斐のあった、いい一日でした。
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美術館に着いたのが、12月11日(土)の12時過ぎ。
大きな看板が出ていて、期待が高まります。


まず、今回の主目的である舟越桂氏によるアーティスト・トークの会場となるホームギャラリーの下見。
比較的広い会場で、一安心。
講演開始まで2時間近くあるし、場所取りのために座っていなくても、まあなんとかなるだろう、という見込みの元、会場内をぐるっと一回り。
展示室は、1980年代、1990年代、2000年代と時代ごとに3つに分けられ、作品点数は多くなかったが、作風の変化がわかる、いい展示だった。
中でも、初めて見たのは、「風のある部屋」(1992年、株式会社西日本シティ銀行)と「もうひとりのスフィンクス」(2010年、エド・ブローガン氏蔵)。
13時過ぎに見終わったので、講演会の会場へ移動。
よく見ると、誰も座っていない席にも場所取りのために物が置かれていて、マナーの悪さに唖然。それでも何とか前よりの席を確保。
14時には、席は満席。周囲にもかなりの数の立ち見のお客さん。
きっと、主催者側も、こんなに聴講したい人が集まるとは思っていなかったんでしょうね。
すぐに、学芸員の紹介で、舟越桂氏が登場。
「昨夜、熊本で飲み過ぎてしまい、ひどい声で申し訳ない」という前置きで、講演は始まりました。
以下、メモから転載。
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熊本に滞在するのは初めて。
でも、以前から、深いつながりがあった。一つは彫刻の素材として使っている楠が、熊本県の県木であること。九州からの材木を使っているということは認識していたが、それが熊本県産だとは知らなかった。
もう一つは、同時開催されている「光の絵画」展。父・舟越保武のダミアン神父の像が展示されていた。ダミアン神父とハンセン氏病とのつながりは、若いころ、父から聞かされていた。
自分の彫像の眼に使っている大理石は、父が使っていたもの。
固定方法は、仏像の玉眼の固定方法を真似している。内側を刳りぬいて、まぶたの部分は1ノミずつ削っていくという手法。
作品のタイトルは、見えているものを、もう一度、言葉にするのは止めにした。
彫刻にブリキを使ったことに論理性はない。
最初のデッサンにあったものを立体化したもので、もっともそれを表現するのに適した素材を使っている。
その素材が、一般的に彫刻に適しているとされているかどうかは関係なく、使っていいと判断できる性格をしている。
山ともう一つの顔。
もう一つの顔は、自分の中にいる自分と相反するものの表現。
山は、学生のころ造形大にタクシーで乗り合わせて行く途中で思いついた「あの山は俺の中に入る」という、自分でも驚く言葉に由来している。
スフィンクスは人に謎をかける。だからこそ、スフィンクスは人間をずっと見続けている。
なにも言わない。ただ、知っている。
潜在的には、作品を作り始めた初期のころから、スフィンクスとは出会っている。
ノヴァーリスの『青い花』の一節をよく覚えている。
「この世界を知るものとは、なんぞや?」
「自分自身を知るもの」
ここには、なにか大事なことが書かれている、と感じた。
彫刻をやっていこうと思ったが、そのころにはもう流行していなかった具象彫刻しかできないと思っていた。具象に進もうと思う後押しを「自分自身を知るもの」という言葉がしてくれた。
人間とはこうだ、ということは、世界とはこう成り立っている、ということに等しい。
彫像は、胴の内刳りをして、軽くすると同時に、ヒビを予防している。
「バッタを食べるスフィンクス」は、昔観た『事件』というドラマで見た場面に影響されている。
バッタを食べたことはないが、苦いような味がするに違いない。それを敢えて殺して、噛んで食べる。それは、スフィンクスが高いところで人の戦いを見ているときに感じる思いに似ているのではないか?
肩や背中から手が出ている作品が多い。
その手とは、アンテナとしての手。誰かと繋がる、助けを借りるための手。
そういうものとしてならいいのではないか、と思い、作品に取り入れている。
「見晴台のスフィンクス」は、「スフィンクスは自分たちの中にある。なら、自分をスフィンクスに入れてみよう」という思いで制作した。
「あるんだよ。でも見えない」という点から、秘仏や胎内仏も意識している。
自刻像を全部を入れてしまう(見えなくしてしまう)のはもったいないので、ああいった形で見えるようにした。
また、頭の中に収めるためのバランスから、キングコングのような体型になっている。ほんとうはあんなポーズにしたくはなかったのだが、後頭部に収めるという構造上の制限から、あのような体型にならざるを得なかった。
胴体に金箔を貼ったのは、金箔なしでは、将来、レントゲンで撮影してもなにも写らないだろう、という思いがあったから。
版画は、フィルムに描いた線がそのまま原画になる手法を用いている。手描きがそのまま版になる。
普段は夜から夜明けまで働く生活をしているが、版画のときは他の人も絡んでいるし、2週間のプロジェクトで予定した作品数を完成させないと関係者が困るため、ほんとうに別人のように働いている。
<楠を素材として選んだ理由について>
函館で大きいレストランを経営している叔父の仲介で、トラピスト修道院の聖母を彫ることになった。
父(舟越保武)に頼みたかったようなのだが、父は木彫をやっておらず、また、予算もなかった関係で、息子の、まだ無名の自分に白羽の矢が立った。
2mを超える作品になるので、大学の教授に相談をしたところ、楠がいいんじゃないか、と薦められた。
実際に彫ってみて、この材なら、僕はなんとかできる、と感じた。
価格もヒノキより安く、硬さも中くらい。色も白すぎず、濃すぎず。匂いもいい。
困るところは、木目がねじれているところ。彫る方向を頻繁に変える必要がある。
<作品を手放すときの気持ちについて>
自分の作品であっても、手元を離れてしまうと、二度と見る機会のない作品は多い。
どこにどの作品があるのかは、画廊を通じて知るだけで、コレクターの人と友達になる、ということも、あまりない。
人の形をしたものなので、手放すのは辛い。どの作品とはいわないが、億万長者になったら、買い戻したい作品がいくつかある。
最近は助手が小まめに掃除をしてくれるので、そういういことはなくなったが、以前、父の家の倉庫で制作をしていたときは、彫った木屑が床に溜まっていき、作品が完成して運び出されると、そこにポッカリと穴が空き、寂しかった。周囲の音は同じなのに、辺りが急に静かになったような気さえした。
<趣味について>
若いころは身体を動かすことが好きだった。特にラグビー。
趣味といえるものは、あまりない。映画は好き。いい年をして、テレビっ子でもある。
スケートボードが好きで、若いころ、「妻の肖像」を完成させる前のころ、そのころ住んでいた府中の競馬場の駐車場でずっとやっていた。
<父、舟越保武について>
影響されている。
一生、父を超えられないだろうな、と思っている。他人の評価ではなく、自分(舟越桂)の感じる父のすごさを超えられないと思っている。
学生のころ、「こういうものと出会ったから、彫刻の道を選んだ」という話をしたことがあった。
そのとき、「(そういうきっかけが)俺にはない」と思い、わりとショックだった。
少し後で、物心がつく以前に、そのきっかけに出会っていることに気がついた。
それは、記憶にはないけれど、父という存在との大事な出会い。
小3のころには、「彫刻家になっていくだろうなぁ」という遠い予想を抱いていた。
「スフィンクスの話」という作品の完成間近、「これを作るために、ずっと彫刻を作ってきたのかもしれない」と思った。
<美しいという言葉について>
私は「美しい」という言葉を安易に使いすぎているのかもしれない。
私が美しいと思うものは、何かが調和しているようなもの。それも盲腸があるような調和。余計なものがくっついた調和。
例えば、すごく辛いものが含まれている映画でも、「美しい」と表現することはある。
例えば、傷がないお茶碗と傷があっても、それ全体として美しいお茶碗。
最近、奇異に見える作品も作り始めているのは、そういう思いがある。
<社会との関わりについて>
削ぎ落とすことで、いつの時代にも通用する意匠というものがある。
今の政府を批判しても、体制が変わるとその批判自体が古くなる。
自分の作品には、服装なども、流行そのもの、その時代にだけ通用するようなものは取り入れないようにしている。
<表情について>
少し外斜視気味にしているので、遠くを見ているようになっている。
一番遠くにはなにがあるか?
世界を知る=自分を知る、ならば、自分を見るのでもいいんじゃないか?
固定した表情にしないように作ってきた。笑顔で作ると、それは広がりのない、それだけのものになってしまう。
もっと長い間通用するものを作りたかった。
<彩色について>
下地には、アクリル絵の具の白を濁らせたものを塗っている。
それをサンドペーパーで削り落とす。木の色に助けられていると思う。
肌色は、油絵の具を使っている。頬に赤みがほしいときは、絵の具が乾かないうちにパステルの粉を飛ばしている。
胴体は、アクリル絵の具を使うことが多い。テカリを出したくないときは、石の粉を混ぜたりしている。伝統的な技法にはこだわりがないので、自由にやっている。
寄せ木については、伝統的な技法を教えてもらっていないのが、マイナスになっている。
(質問者に対し)彫刻をやっているなら、なんでも使った方がいい。一生は短いから。
<仏像からの影響について>
仏像からの影響は受けている。
鎌倉時代の仏像には、自分の作品との近さを感じている。
法隆寺の救世観音はすごいと思う。東大寺の広目天もすばらしく好き。
運慶の俊乗上人(俊乗房重源)坐像には、人を表現することが世界を表現することにつながる、という念を抱いた。
========================================
質問が長引き、終わったのは予定の15時半を大きく回った16時過ぎ。
舟越氏は、少し休憩した後、サイン会にも応じてくれ、私も今回のカタログにサインをいただきました。
その後、展示会場をもう一度ぐるっと見て、戻ってくると、まだサイン会は続いていました。
講演だけでもお疲れでしょうに、よほどのサービス精神がないと、なかなかできないことだと思います。
美術館を出ると、もう17時過ぎ。
わざわざ熊本まで来た甲斐のあった、いい一日でした。
熊本市現代美術館
http://www.camk.or.jp/
「舟越桂2010」展
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/funakoshi/
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- メディア: DVD
『女落語家の「二つ目」修行』(川柳つくし,双葉社,2010.07.04) [本]
現在、「二つ目」の女流落語家による自伝。
読了して思ったのは、ミムラ主演で映画にもなった『落語娘』(永田俊也,講談社,2005.12.15)との共通点の多さ。
直接の関係があるのかどうかはわからないが、いろいろなエピソードに共通点が感じられた。
鈴本演芸場で日曜日の朝にやっている「早朝寄席」を観ていてもなんとなく感じられるように、そもそも「二つ目」というのは大変そうなポジションだが、さらに女流というハンデが加わると、もう、ほんとうに大変なんだろうなぁ、と感じてしまった。
それでも、踏ん張れているのは、落語家という道に魅力があるからなんだろう、きっと。
作者の修行話も興味深いが、それを補強する形で展開されているのが、『師匠方の「二つ目時代」』というインタビュー。
春風亭昇太、立川志の輔、柳亭市馬、柳家喬太郎と錚々たる面々。
中でも、他の面々が二つ目時代にはそれなりに苦労があった、と語っている一方で、「それが、僕のときって、ちょうどバブルの真っ只中だったの。だから、バイトが山のようにあって、毎週土日は絶対どこかで営業してたんだよね。全っ然苦労しなかった」と語る春風亭昇太の飄々とした語り口が印象的だった。
苦労していないわけはないのに、苦労を苦労と感じない才が、今の彼を支えているのだろう。
ネットで調べたところ、筆者の川柳つくしさんは、10月10日の鈴本演芸場の早朝寄席には出演されるらしい。
時間を作って、ぜひ一度、彼女の高座を聴いてみたいと思う。
読了して思ったのは、ミムラ主演で映画にもなった『落語娘』(永田俊也,講談社,2005.12.15)との共通点の多さ。
直接の関係があるのかどうかはわからないが、いろいろなエピソードに共通点が感じられた。
鈴本演芸場で日曜日の朝にやっている「早朝寄席」を観ていてもなんとなく感じられるように、そもそも「二つ目」というのは大変そうなポジションだが、さらに女流というハンデが加わると、もう、ほんとうに大変なんだろうなぁ、と感じてしまった。
それでも、踏ん張れているのは、落語家という道に魅力があるからなんだろう、きっと。
作者の修行話も興味深いが、それを補強する形で展開されているのが、『師匠方の「二つ目時代」』というインタビュー。
春風亭昇太、立川志の輔、柳亭市馬、柳家喬太郎と錚々たる面々。
中でも、他の面々が二つ目時代にはそれなりに苦労があった、と語っている一方で、「それが、僕のときって、ちょうどバブルの真っ只中だったの。だから、バイトが山のようにあって、毎週土日は絶対どこかで営業してたんだよね。全っ然苦労しなかった」と語る春風亭昇太の飄々とした語り口が印象的だった。
苦労していないわけはないのに、苦労を苦労と感じない才が、今の彼を支えているのだろう。
ネットで調べたところ、筆者の川柳つくしさんは、10月10日の鈴本演芸場の早朝寄席には出演されるらしい。
時間を作って、ぜひ一度、彼女の高座を聴いてみたいと思う。
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